Climate Youth Japan
2050年にいないかもしれない人たちが2050年のことを話し合うことに大きな矛盾を感じます。

– 気候変動問題が難しいと思うのは、日々の生活の中でどうするかという文化的な側面もある一方で、排出権取引を作らなければいけないとか制度に関する議論もあり、その二つのレベルの違う話が混同されてしまうことが多い気がします。制度の部分ではどのように変えていくべきだとCYJでは考えていますか。
国際交渉の舞台において、日本にとって不利だと言われるのが、日本はもともと省エネの技術が発展しているので、限界削減費用、CO2を1トン削減するのにかかる費用が他国に比べて圧倒的に高いのです。他の主要国では数十ドルのところが日本は400ドルとか、そのくらい何倍も違うので、技術力の高さが国際交渉の場では不利に出ているというのは、ジレンマだなというのが一つ。
国内での政策は一言では言えないと思うんですね。技術力という面でも少子化という問題があって、それをどう継承していくのかとか、あるいは交通の面でいかに公共交通機関をネットワーク化して、自動車の使用頻度を減らすかとか、あるいは建築の部門でCO2の出ない素材だとか太陽光発電だとか…。
– いろんな政策のオプションはある、と。
ただ、言えるのは政権交代した中で、地球温暖化対策基本法案が絶対可決してほしいな、というのはありますね。本来ならば3月に可決されるはずだったんですが、延ばされてしまってまだ可決されていません。
その法案はいわゆる25%の目標や炭素税の構想や排出権取引権制度とか、俗にいう大きなトピックがすべて含まれているんですね。それが法律化されることで、環境という面からいえば政権交代が大きな意味を持つことになります。今は7月の参議院選挙でも民主党が危うくなってきたこともあり、一刻も早くそれを可決してほしいなというのはあります。
– 地球温暖化対策基本法案が成立すると、だいぶ状況が変わるのでしょうか。
法律化するということはいろんな制度が組みやすくなるということかと思います。ただ難しいのは経団連との対立などですね。一方的な視点かもわからないですけど…。
細かく言えば、CO2排出量の算出方式にも、「総量方式」、つまり排出量の総量を規制するのと、「原単位方式」、一個の製品あたりの排出量を算出する方法の2つがあるんですね。政府やNGO側は総量方式で計算しようと言っている。つまり全体の排出量にふたをかける。でも、原単位方式では生産量あたりではふたをかけられるけれど、それをたくさん生産してしまえば、結局は経済規模に比例してCO2排出量は増えてしまう。
– そういうところに対する政策提言も今後CYJでは考えていますか。
もちろん。ダイレクトに政策提言するのは一つの手段です。また、ぼくは社会的機運を作ることも重要だと信じています。
ぼくたちの今回のCOP16派遣事業はユースを対象とした意識啓発を目的としていますが、一般の人たちが気候変動問題に関心を持ち、メディアに惑わされず問題を見ることが大切だと思います。企業が利益を上げるためには消費者の嗜好が大切ですが、もし環境に良い商品が売れるのであれば、企業側も文句は言えないと思うんですね。そういう意味で社会的機運を作って、地球温暖化対策基本法案が可決されるのを後押ししたいです。すでに「Make The Rule」など様々な動きはありますが。
– 経産省とのワークショップの話が出ましたが、CYJとしてどのような政策提言のチャンネルを持っているんですか。
経産省や環境省など政策提言のチャンネルはあります。また、エコ・リーグやA SEED JAPANなどとタイアップしてやっていきたいです。生物多様性COP10が10月に名古屋でありましたが、そこで活動していたユースのみなさんとのつながりは今後も保ちたい。合同報告会などを実施して、ともに盛り上げていきたいです。
– 日本のユースは政府からカウンターパートとして見られていると思いますか。
現時点では「ノー」ですね。ただ、経産省とワークショップをしたときには高く評価していただいて、少しずつではあるけれども一部の方々には認識していただいているのではないかと思います。
– ユースが気候変動に関する制度づくりの問題に関わる意義というのはどこにあると思いますか。
世代間倫理という言葉がありますが、「自分たちの未来は自分たちで作る」というのがユースが活動する一番の意義かなと思っています。もっと言えば、高校生とか中学生とか、ぼくらの下の世代も関わるべきだと思っています。COP15でもらったTシャツ — 国際ユースはみんな着ていたんですが — には「How old will you be in 2050?」2050年にあなたは何歳ですか、という政府の交渉官の人たちに向けたメッセージが書かれていました。ユースが活動する意義というのはそれに集約されると思います。2050年にまだ生まれていない命もある。にもかかわらず2050年にいないかもしれない人たちが2050年のことを話し合っていることに大きな矛盾を感じます。